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スキーという20世紀のスポーツ、レジャーの時代を振り返って……。



 ちょっと歴史の勉強をしてみよう。18世紀にイギリスで起きた産業革命は都市型工業、そして都市型生活というライフスタイルを確立した。また、大規模な機械工業が発達すると同時に、大量の物資を輸送するために交通機関の整備拡大が必要とされ、19世紀に入って公共の陸上輸送機関として鉄道が普及した。いわゆる、交通革命である。
 そうした社会構造の変化は、有閑階級と呼ばれるレジャーに興じる層を生み出した。旅行とは大事な事ではなくなり、誰もが気軽にヨーロッパ大陸を巡り渡ること”グランウンド・ツーリング=G.T.”という概念が誕生した。GTは、現在でもクルマのグレードを示す言葉として広く浸透している。また、現在の学生が卒業旅行で海外旅行や短期留学するという考えかたも、当時のイギリスの学生の間で流行り、憧れから生まれた事に由来する。19世紀に活躍したフランスの作家、ジュール・ベルヌの「海底2万里」が、アメリカではマーク・トゥインによる「トム・ソーヤの冒険」が発表され、人々の旅や冒険に対する憧れから支持された時代である。
 そうした、19世紀後半〜20世紀初頭にかけて、イギリスの人々がスイス・アルプスに出向きリゾートライフを楽しむというのがブレイクした。時期同じくして、アルペンスキーの祖とされるオーストリアのマティアス・ツダルスキーが「山岳スキー滑降技術」を1896年に出版する。それによって、単なる雪上の移動手段であったスカンジナビア生まれのスキーは”アルペンスキー”へと進化したのである。
 ちなみに、現存する世界最古のスキーはB.C4000年頃のものがスウェーデンで発見されている。スキーにとっては数千年ぶりの快挙であった。


クラブ対抗戦から生まれたアルペン競技。ギャンブルだったスピードスキー。

 やがて、スイスでスキーに興じるイギリス人は地元のスキークラブとの対抗戦を行うにあたって「ルールを規定しなければ……」という提案を行った。そのまとめ役となったのが”近代アルペンスキーの父”と呼ばれることになる、アーノルド・ラン卿である。彼は1928年には自らの『カンダハースキークラブ』を率いて、アルペンスキー発祥の地であるオーストリア・アールベルグ州サンアントンを訪れ、世界初の国際スキー競技会公式戦を行うことになる。競技種目は滑降と回転である(大回転は第2次大戦後に誕生した種目である)。21世紀になっても、その名は称えられであろう。
 その大会名は「アールベルグ・カンダハ−レース」。現在、W-Cupの3大クラシックレースと呼ばれる、サンアントン大会とキッツビュール(AUT)大会、ウェンゲン・ラバーホーン(SUI)大会が、DH+SLのアルペン複合種目を設け、他のレースとは別格の扱いとなっているのは、ラン卿への敬意を表しているからに他ならない。
 一方、日本であまり知られていないのが、当時のアメリカ大陸のスキー事情だ。コロラド州立スキー博物館にある資料によれば、北米やオーストラリア、ニュージーランドにスキーをもたらしたのはノルウェー人であるという。
 捕鯨船で世界各国を訪れた彼らはスキーに興じたという記録があった。ゴールドラッシュに沸くカルフォルニアの山岳地帯で「誰が山の頂上から早く降りる事ができるか?」という賭け事をしたり、オーストラリアでは汽車と競争したノルウェー人の記事が新聞に載ったという。純粋に直滑降でスピードを競う大会も多く開催されていたらしい。
 しかし、荒くれ男の勝負事の手段でもあったがスキースポーツの魅力は人々を捕らえ、学生を中心に流行り始める事になり、初のスキークラブがダートマス大学に誕生した。ちなみに、アルペン競技で唯一のオリンピック・メダリスト、猪谷千春氏(1956年コルチナ大会SL銀)は同校の卒業生でもある。

mettez les Skis! 日本初のスキー教練はフランス語で行われた!


 我が国のスキー歴を振り返ると、明治44年1月12日にオーストリア・ハンガリー帝国の武官テオドール・フォン・レルヒ少佐が新潟県高田(現・上越市)の金谷山でスキー教練を行ったのが始まりである。当時の日本は日露戦争の勝利国として、各国の軍隊は武官を日本に派遣していた。当時の帝国陸軍は、八甲田山における集団遭難事故を起こした直後とあって、前述のマティアス・ツダルスキーの直弟子であったレルヒ少佐に目をつけたという次第である。それ以前にも日本へスキーを持ち込んだ外国人、ノルウェー国王から贈られたスキーなど、スキー自体はあったものの本格的に教えることのできる人材はいなかったのである。
 その我が国初のスキー教練は、高田連隊の精鋭である青年将校、教師を中心とした民間人が集められた。受講者たちは、その後、日本全国でスキー講師として活動することになるからである。
「メテ・レ・スキー!」
 今も上越市のスキー博物館のパンフレットに記される言葉”スキーを付けよ!”である。しかし、何故、フランス語なのかという疑問を持つ諸氏は多いだろう。そのときの通訳武官である山口大尉はフランス留学経験者だったから、というのが真相である。レルヒ少佐自身はドイツ語、英語、フランス語と数ヶ国語に堪能だったため、ことをスムーズに行うためにフランス語でスキー教練をしたというわけである。
 しかし、日本人スキーヤーならレルヒ少佐だけでなく、その仕掛け人である長岡外史中将(1856〜1933)の存在を忘れてはいけない。長岡中将はレルヒ少佐のスキー(それまでのノルウェー製に比べて、サイズも短くオーストリア式と呼ばれた)を手本に陸軍の工房で腕の良い家具職人を集めてスキーを量産させた、いわば日本のスポーツ産業の母体を誕生させた人物と評価できる。ちなみに、肉食が一般的でなかった当時の日本にあって、親しみやすいスキー汁(トン汁)を考案、公開教練で振る舞うといったことも行っている。
 さらに宣伝効果を高めるべく、民間人のみならず女子学生を対象とした教練で新聞各社に話題を提供するなど、アイディアに長けた人物であったようだ。なにより、スキースポーツを軍による独占ではなく、広く民間に公開したという点で高い評価をすべきである。
「軍事教練という目的のみならず、冬は雪深く閉じこもり気味となる地方に住む者にとって、スキーは便利な交通手段であり、心身の鍛練に活用できるものです……。」
 長岡将軍は後の明治天皇謁見の際に報告している。また、自ら日本初のスキークラブである越信スキー倶楽部を設立した。その発会式には乃木将軍、明治天皇も侍従武官を送り、皇室とスキーを結び付きが生まれている。
 20世紀のスキースポーツは冒険心に始まり、友好と親善によって育まれたと言って良いだろう。21世紀のスキーは、どんな進化を見せるのだろうか?


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